思想

自分の愛する尊敬するやねうらお先生のblogで、AIRについての批評がありました(id:yaneurao:20050506)。


で、当然ながら、コメント欄には、やねさんの批評に対するコメントが書かれるわけです。
その結果、やねさんは、自身の掲示板のところで、次のように書かれました。

批評はぐだぐだになる
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まともな批評家なら誰でも、突っ込まれても負けないように
たいていそれなりに理論武装しているものだ。

ニュークリティシズム、ロシアフォルマリズム、構造主義
ポスト構造主義はもちろん、心理学、社会学言語学、創作理論、
現象学、解釈学、受容理論ぐらいは少なくとも勉強している。(だろう)

しかし世間の人の感想というのは、それとは全然異質のものである。
プロトコルもへったくれもない。言葉の定義すら哲学のタームのそれとは
全く異なるのである。これでは会話が成立しようもない。
(snip)
そんなわけで、掲示板やblogのコメント欄なんかだと、もう全然違うレベルの話が
入り乱れることになる。たぶんまともな議論なんて成立しない。

ホントなら、そうなってきたら、もうケツをまくって、ついでに尻尾も巻いて
アカンベーして逃げればよさそうなものだけれど、なんか私の場合、
性格上そういうのも潔しとは出来ない。だから、延々とやりあうことになる。

で、そうなってくると疲れるので、やっぱり(文学的な)reviewとかは
コメントの書けるようなスペースに掲載するのはよそう、とか思うわけだ。
(snip)
そんなわけで、これを機に思想的なことを書くのは控えようと思った次第だ。

やねさんは、もう思想的なことを書かないらしい。非常に残念だ……。
今までにも、やねさんは思想的なことをblogに書いてきた。
そして、やねさんの思想に納得できない人たちは、コメント欄に反対意見を書くわけだ。
そのコメントに対して、やねさんは、いつも戦っている。
しかし、反対意見を書いた人の一部には、どんな理論展開をされようとも、絶対に、自分の意見を翻すことがない人がいる。
それは両者一歩も引かず、結局泥沼な結果になってしまうのだ。


自分が思うに、自分の思想を押しつけようとする人は、心が狭すぎる。
自分の考えと違うから納得しない、というのは、非常に浅はかな行動である気がする。
「いや、その考えはおかしいですよ。なぜなら、自分の考えはこうなんですから。」
と言うのと、
「ああ、そういう考えなのか、なるほどなるほど。でも自分はこんな考えですけどね。」
と言うのでは、天と地ほどの差がある。
前者の場合、延々と泥沼に落ちていくことになる。
しかし、後者の場合は、自分も、なるほど、と思って、それで終了なのだ。
どの道、答えなど出るはずもない議論を一生やったところで、結論など出るはずもない。
互いに違う意見を出して、それで納得するしかないのだ。
その辺を分かってない人が、延々とコメント欄を埋め続けるのだろう。
それが非常に悲しいと思う。